『川柳スパイラル』13号

 

  一生恥を知らなかった時計盤の光  湊圭伍

  いわゆる川柳いわゆる血腥い星空   〃

  拒めば拒むほど皮膚を産むはず    〃

  短編の終わりに銃を立てかける    〃

 

正岡豊さんが湊さんの句集について書いておられる。句集タイトル『そら耳のつづきを』

に対して「勾玉のつづきを」という美しいタイトルで。

勾玉の形は耳の形に似ているような気がする。そら耳に勾玉。句集のカバーの色も勾玉色であると言ってしまえばそんな気もする。

だから何なの、とこの書評を読んでいないひとには不審に思われてしまうだろうけれど、冒頭の文章が素敵だったのでじいっと見つめていたのだった。

気になった部分の引用は以下。

 

「腰を据えたりふらふらしたりする」ことを、私はとても「うつくしい」ものだと思う。現在の世界に於いて「栄光」があるのは「悲惨」があるからだが、その二項対立からの「脱出」は、実は「非望」なのではない。「脱出」が求めるものは、「結実」なのである。

 

「市場がないところに文芸文学はあるのか」というとそれはないということでいいのではないかと私は思っている。

 

湊さんはこの文章を読んでどう思われただろうか。続く内容はなかなか厳しいのだけれど、とても誠実な評だと思った。

 

 

                                                                                            2021.12.21

 

 

 

 

 

 

  

                                  

 

 

 

 

 

 

 

峯裕見子さんからオリジナルカレンダーをいただいた。

以前からあざみエージェントが制作している川柳と写真のカレンダー商品。

12か月12句、峯裕見子さんの句を楽しむことができる。

作品集に近いものなので、このカレンダーには書き込みなどせず、保管しておこうと思う。

峯裕見子さんには膨大な数の句のストックがあるはずなのだけれど、今回のカレンダーで採用されている句はとてもやわらかいタッチの句が多い。眺めていてしんどくならない句を選ばれたのだろうかと推察する。

 

  夕顔の種だと言って握らせる   峯裕見子

 

普通の光景を書いているだけのようで、どうしてだか見てはいけないものを見てしまったかのような気持ちにさせられる。

有無を言わせず握らせる種。そこから発芽するのはただの夕顔なのだろうか。なにか違うものがすくすく育ってしまうようで。

 

 

春陽堂書店からは柳本々々×安福望の「もともと予報ポストカードブック」が発売されている。「バームクーヘンでわたしは眠った もともとの川柳日記」と対になる商品。安福さんの絵は不思議で、安福さんの手書き文字がとてもいいので、文字があったほうが

見栄えがより良い。文字が絵の邪魔に全然ならない。わたしはこの二人の組み合わせは奇跡のようだと思う。

 

  また二人。なんども地球なんだけど  柳本々々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「川柳めがね」

               竹井 紫乙

 

 長い間たくさん川柳を書いていると、川柳の筋肉がついて体中に瘤みたいなものがいくつも出来上がる。その瘤は目には見えないけれど、川柳を書く人たちはきっとみんな持っている。

 筋肉の一種だから、怠けると柔らかくなって溶けてしまう。書き過ぎるとマッチョになってゆく。 体も心も世の中も日々変化しているから鍛錬するにも方法や加減に工夫が必要で、一本調子で良いというわけではない。これまでは地道なやり方で筋力アップに努めていたのだけれど、去年あたりから急激に体が弱くなってしまったからもう、無理はできない。 

 というわけで「川柳めがね」を使うことにした。川柳を書いている人たちは、きっとみんな持っている。

 「川柳めがね」はとても便利である。この眼鏡を掛ければレンズに映るものすべてが川柳に見える。これからはこの眼鏡を使うに限る。私の眼鏡は祖母の家の押入れに残されていた骨董品である。最近の眼鏡だと偽物やら安物のレンズもあるらしいので注意しなければならないのだそうだ。三か月に一度、度数を調整しなくてはいけない。好みで色眼鏡にも交換できる。人情やお説教をカットするものもある。最高級品には俳句と川柳を峻別できるレンズもあるらしい。値段はわからない。

 

 

                                                  『what,s』創刊号

 

 

 

 

 

 

 

 

「すう、はあ。」竹井紫乙

 

不注意で猫の水たまりにはまる

今しか見ないからずっと目がきれい

息吐けばスワトウレースの漁網

ゼリーで固める影の薄い子供

炭酸が弾けて肺が泡だらけ

横になるとはみ出てしまう湖

スキマを配っているヤクルトレディ

爪先だけで歩くとひとがよける

助走のための薬から草生える

箱だったことを忘れている仔猫

張店に並ぶしっとり美容液

動悸が止まないのは雨のせいだね

鏡は伏せて青空にひれ伏して

ほとりに記憶を預けておくみやこ

舐めたい背中をストックしてる蔵

劇場に行きたし生きたし息足し

末期のお抹茶と塩豆大福

猫になるワクチンを打つ波の上

罪状はきらめく呼吸なんだって

 

ソフランと一緒に花びらをめくる

 

                                        『what,s』創刊号

 

 

 

 

 

『what,s』創刊号

 

広瀬ちえみさんが新しい短詩の雑誌を刊行された。年2回の発行で非売品の扱いとなって

いるけれど、読みたいひとは在庫があれば送ってもらえる仕組み。

原稿(テーマは自由)はいつでも応募中。

終刊となった『杜人』も同様にエッセイや評論は常に応募可能ということになっていた。

(自分のことも含め)たくさんの方たちの文章を読むことを楽しみにしようと思う。

 

  たましいのつまみどころを忘れた日     水本石華

  たましいを抜こう麻酔の効いているうちに  鈴木節子

 

たましいって何?見えないし触れないしあるんだろうけど無いかもしれない。

形があって、目に見えるものはすべて搾取の対象となるならば、たましいだけは自由

だと思いたいところなれど、その自由を自らすくえず、抜いてしまおうとするなんて。

 

インド型デルタ株インテル入ってる    中内火星

                   靖国は神社だが韓国は国である       〃

                   美しい日本があった蚊遺香        水本石華

                   反日に焼き直される非国民         〃

 

今号では柳人よりも俳人のほうが時事吟をダイレクトに出されていて新鮮に映った。私自身はノーマルに(?)コロナ禍をテーマに連作を提出したけれど、最近の俳壇はどのような句が多いのだろうか。新聞をとらなくなり、図書館にも行かなくなったのでますますわからないけれど気になった。

 

  死ぬはずはないさ生まれていないもの   佐藤みさ子

  長雨の大収穫の毒きのこ           〃

  どうぞ手を挙げてください無視します     〃

  選びなさいどれが自分の足なのか       〃

  会いましょうわたしを消してあなたを消して  〃

 

掲載作品の中でも際立ってエッジが効いている佐藤みさ子さんの句群のタイトルが「会いましょう」。お会いするのに覚悟が要りますね!と思う。こうして抽出してみると、先日の選挙のことを思い出してしまう。投票率の低さや、結果やら。

みさ子さんの川柳は普遍性を持っているから10年後に読んでも違和感なく読めるに違いない。それでも2021年の秋にこの句群を読んだという記憶と印象は消えないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『川柳の仲間 旬』2021年11月号

 

いらだちも遊びも謄本に載らず  樹萄らき

もはやもう欠点だけで生きている  〃

完璧な舞い舞姫の目は虚ろ     〃

 

年齢を重ねる毎に良くも悪くも人間は鈍感になってゆく。これは普通のことであるし

楽に生きてゆけるという言い方もできる。欠点だけで生きるのも悪くはない。というか

むしろそのほうが面白いだろう。現実には欠点だらけであっても生きてゆける。

もしそのような状態を許さない社会であったとすれば、ほとんどのひとは自殺に追い込まれてしまうだろう。

 

ほとんどのひとの一生は誰にも顧みられることはなく過ぎる。

謄本には生まれた時の情報から亡くなった時の情報が簡素に記載され、その情報は主に国家と家族にとって必要な情報とされる。私は以前の仕事でたくさんの個人情報を目にしてきたけれど、複雑で読み解くのが難しい戸籍謄本や、今はもう存在しない国が本籍地となっている書類にも多く触れてきた。それぞれのひと一人に様々な事情や家族の問題があり、複雑であることは当たり前である。

夫婦別性について反対するひとたちや同性婚に反対するひとたちでさえ、その複雑さとは無縁ではいられないはずで、一人世帯が最も多いとされる日本において、国が多様性を認めようとしない姿勢自体に狂気を感じる。

 

らきさんの句群は現実社会の鏡で、とても素直だ。

 

 

                                               2021.11.14

 

 

 

 

 

 

 

             

 

  

 

  

 

2013年の現代詩手帖の特集は「詩形の越境」。

今年2021年の特集が「定型と/の自由」。

 

そもそも、私は熱心な『現代詩手帖』の読者ではない。だからどのくらい、この雑誌が

短詩の特集を組んでいるのかはわからない。2013年の9月号はたまたまどこかの古書店で

見つけて購入したような気がする。それでも入手したのはずいぶん前のことだ。

掲載されている「越境できるか、詩歌」というシンポジウムでは歌人の穂村弘だけが川柳のことを「気になっていたこと」として話している。

引用:「目に見えない本質の共有だけが俳句と川柳の差異であるならば、その二つのジャンルは越境できたらいけないのではないかと思うのですが」

この発言に対し俳人の反応は時実新子を引き合いに「俳句と川柳の境界がぼやけていくことによって季語の世界がまた豊かになりえる」という、私には理解できない発言が返答。

 

 

今年の『現代詩手帖』10月号の「俳句・短歌の十年とこれから」という対談では出席者が川柳のことに触れているが、それは短歌の書籍出版で有名な書肆侃侃房から発行された『はじめまして現代川柳』という本の存在があったからであろうし、出席者が川柳人と以前からつきあいのあるひとだから、という単純なことが理由であると思われる。

「でも川柳だと信じてる」という題の柳本々々の評論はページ数も多く読み応えのあるものだが、これは柳本が現代詩手帖賞の受賞者であり、川柳作家であると表明していたからこそ依頼があったのだろう。もしもこの柳本の評論が掲載されていなかったとすればどうだったろうか。ということを考えずにはいられない。

 

 

                                                 2021.10.18

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『東山道エンジェル紀行』文 = 町田康 絵 = 寺門孝之 (左右社)

 

 小説家と絵を描くひとの相性というのは運命的なものがあるのだろう。このお二人の組み合わせで制作された本は過去にも何冊もあって、どれも印象的な本の姿をしていた。今回の本は、仕掛け絵本のような形態をしており、こんなに凝った小説の本は他に見たことがない。なのに価格はたったの税込み1980円。さすが売れる作家の本は何もかもが違うなあと驚く。構想期間20年というコピーにも驚く。私、20年前って何してたっけ。

 小説の内容は御伽草紙のようで、グリム童話の続きのようで、何度も何度も繰り返し読んでその世界に戻ってしまう。何度も引っ越しを繰り返す中で本棚から何冊もの本が消えた。それでも残っている古い古い本が何冊かある。それらと同じ匂いがしていて

きっと私はこの本を死ぬまで手放さない。

 

                                                 2021.10.10

                   

 

 

 

  滝つぼへ落ちるひとつの駅ならば  小池孝一

  

小学生の頃、ほんの短い間だけ切手蒐集をしていた時期がある。

事務の仕事をしていた母が、郵便局に行ったついでに新しい記念切手などをよく買ってきて

くれていた。 切手はとても小さいけれど、名画や景勝地、色んな行事が画面いっぱいにデザインされていて、うっとり眺めていた。

 

  貝殻図鑑ひらけば熱い足の裏   宮井いずみ

 

しばらくするとうっとり眺めるよりも、どんどん郵便に使うようになった。電子メールが登場するまではよく手紙を書いたし、電話で誰かと話す時間も長かった。

湯水のように、滝のように、書くことも話すこともあったのだな、と思う。

 

今だって変わりなく、下らないお喋りや何度も読み返す手紙は大切だけど、去年からのコロナ禍で満員の通勤電車や、出社しての仕事が本当に必要なことだったのか疑問を感じるし、もう嫌だなという気持ちもある。そうして下らないお喋りの時間は激減した。在宅勤務の日は一日を有効的に使える。欠点は仕事の気分を引きずってしまいがち、ということ。

 

  抽斗に入って大丈夫と唄う    樹萄らき

  息止める小手先だけの非常口    〃

 

誌上句会で「目薬」という題の選をした。目薬は一日一回は使用している必需品。目薬を差すのが怖かった子供の頃のことをたまに思い出す。一瞬だけ、世界がゆらゆらするから。

 

  目薬をさしてる畳濡らしてる  笠川嘉一

  降り続く雨目薬を買いにいく   〃

 

  おとこもおんなも目薬を差して泣く  中嶋ひろむ

  目薬を差そう不幸者でいよう       〃

 

 

 

 

                                                                2021.9.18

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祖母の弟が亡くなって半年ほど経過。 

このおじさん夫婦には子供がいなかったので私の母の妹が養子縁組していた。

叔母が様々な死亡後の処理をしていて、ようやく作業がひと段落したとのこと。 

家の登記変更の為に司法書士が取り寄せた戸籍謄本を見てみると、知らなかったことが色々わかったらしく手書きの家系図を送ってくれた。

 

遡れる人は限られている。一番古い人で慶応三年生まれの祖母の祖母。

もっと古い資料は祖母の家にあるらしいけれど、見たことはない。

産まれて数か月で亡くなってしまった人、長生きした人、いろんな人がいる。

女性はカタカナの名前の人が多い。カメさん、トクさん、コトさん。

男性は儀兵衛さん、市松さん、弥一郎さん。今では使わない名前ばかり。

昔は動物の名前をそのまま子供に名付けていたらしいけれど、「烏賊」など海の生き物の名前も使われていたと聞いたことがある。いかにも元気そうな感じ。

 

 

私はこの家系図の中の誰に似ているのだろうか。

 

                                                                                                                                          2021.9.13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『触光』71号

 

広瀬ちえみさんと芳賀博子さんの両名に、私が書いたエッセイのことに触れていただいている。

(高田寄生木賞に出したエッセイでは川柳のアンソロジー本を軸に書いた)

 

川柳誌、川柳句集を販売している書店はとても少ないけれど、川柳のアンソロジー本ならどこのお店でも取り扱いがある。川柳誌というものはそもそも一般の人が手にとって読もうかな、と思うようなジャンルの雑誌ではない。ここに大きな壁を感じる。

野沢省悟さん曰く、話題になってもおかしくない川柳の本が、川柳の世界で無視されているらしいのだけれど、これが壁の正体なのだろう。

広瀬ちえみさんは「主流は秘かに異端の作品を読んでいる」と書いておられるけれど、これはかなり前向きな意見だ。(主流ってどこなんだろう?という問題もある。)

 

芳賀博子さんから私へのレスポンスとして「文芸としての川柳について、考察の続編」をということが書いてあった。

(これはエッセイの中味ではなく、私の受賞挨拶文に対してのコメントなのだけれども)矛盾するようではあるけれど

これについては古くから考えてきた人たちが存在しているので、今、改めて議論することではないような気もする。

そして「川柳は文芸でなくとも構わない」あるいは「文芸と呼べない川柳は存在していて、それを否定しない」とも思う。

長い間、真剣に川柳を書いたならばこのことについては必ず疑問を覚えるか、考えるかするはずだ。

私が句会中心主義に問題があると思う理由は、句会にばかり出掛けているとこの問題に突き当たることがなく通りすぎてしまえるから。

 

そして私たちの先輩たちが真剣に考えてきたことやその資料に光がなかなか当たらない状況が長く続いていることには問題がある。私は時折『川柳大学』のバックナンバーを読み返しているけれど、良い記事がちょこちょこ見つかる。当時の編集部の皆さんが熱意を持って毎号作っておられたのだということがよくわかるし中でも八坂俊夫さんの連載「川柳雑記帖」はとても勉強になる。私が『川柳大学』の会員だった頃は句を書くことばかりに熱中していたので「文芸としての川柳」についてわざわざ考えなかった。その頃の私は「川柳は文芸だ」と思い、疑うことはなかったから。

 

 

(川柳の場合は)詩形式をもたない庶民の生の言葉でありまして、柳樽などにみる古川柳は庶民の言葉の記録で、文学形式から申しますとそれは散文であります

(麻生路郎の)<君見給えほうれん草がのびている>という句は決して文字や言葉に詩としての形式があるのではなく、且又そこには俳句的な衣裳は全然着せられては居りません。それは真の意味の川柳でもあります。

 

『詩川柳考』高鷲亜鈍 昭和36年(川柳雑誌社)

 

 

                                                                     2021.8.28

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  図書館の絵本の棚へひざまずく  笠川嘉一

 

国内だけではなく、世界情勢が悪化しているようなので

さすがに現実逃避したくなってきた。

 

例えば子供の頃によく買ってもらっていた『詩とメルヘン

』が読みたくなったり、大昔の宝塚歌劇の映像をYouTubeでぼーっと眺める、だとか。これまで考えたこともなかったけれど、8歳、9歳の頃が最も能天気でいられた時期だったらしい。

今更ながらそうだったのか、と思う。確かに、幸せな時代に子供でいることができたのだった。今の子供はどうか。恐ろしく緊張感の高い空気の中で学校生活を送っているのかもしれない。

色々考えると何もかもが嫌になってしまうから、とりあえず運動不足でむっちりしてきたお腹のことでも考えよう。いや、積読をどうにかしよう。そして本棚の整理をしよう。と言いつつ運動をしないでいる。

 

『川柳スパイラル』12号では「女性川柳」について特集されていた。(タイトルは<「女性川柳」とはもう言わない>)

実際問題として、あらゆる分野で、場所で、国で、女性差別はあるし、それは根強い。「そーゆーのって、今時はあからさまにやっちゃあ、ダメらしいわ」くらいの認識がやや、浸透しつつあるのが日本の現状だと感じる。

今回の五輪でも、国や企業のトップにはそもそも「人権」が何を意味するのか理解していないひとが多いということが明らかになったのだから。そしてそういう人たちにはおそらく、悪気がない。だから状況は深刻なのだと言える。

女性蔑視を逆手にとって、実力で成功した例が時実新子。時代が味方をした、運が良かった、という意見もあるだろうけれど、「運」は間違いなく実力の内だ。

 

ゲスト作品のところに峯裕見子さんの句が掲載されていた。

 

  あと少ししたら欄間の鶴も鳴く    峯裕見子

  白塗りのまま御旅所に放っとかれ     〃

 

同月の『びわこ番傘』には

 

  森に捨てられてからの君です私です  峯裕見子

 

という句もある。峯裕見子さんの句を20年以上も様々な機会に読んでいるけれど、一人の生活者として書かれた句が多く、それも

特に女性目線から書かれている句というよりは、人間目線、と言ったほうがいいようなところがあって、からっとしている。

御旅所に置き去りにされているのは女性とは限らない。男でも、女でも、子供でも、老人であるかもしれない。

 

『びわこ番傘』は参加者の年齢層が高いので、性差の問題は超越している句が多い印象がある。

 

  もうそろそろ風景でいると申します  伊藤こうか

  朽ちてゆく幸せ 森に還る家     北村幸子

 

本棚の整理がてら2000年頃の『川柳大学』をぱらぱら読み返す。昭和65年に28歳で結核で亡くなった清原祐志さんの話が紹介されていて、久しぶりにその句を読む。

 

  水道が洩れてる私は菌を生む   清原祐志

  健康が欲しい号泣する冬空     〃

  引き寄せる尿器社会に遠き夜    〃

  泣いても笑っても壁だけ      〃

  歩きたい視野を少女が走り去る   〃

  働いてみたい銀貨の転ぶ音     〃

 

古い、と思えない。

 

  逃げ切れるだろか私の一輪車   峯裕見子

 

 

                                                  2021.8.22

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

  鍵盤の音が鳴らないように押す  樹萄らき

 

 7月23日にモデルナのワクチン接種を受けた。1回目の接種なのに副反応が重いので、2回目はキャンセル。一週間経過しても

中途半端な微熱が続き、中途半端に熱が上がったり下がったりしている。頭がぼうっとして重い。一体いつになったらいつもの

体調に戻るのか不安でしかたがない。とりあえず薬を服用しながら、会社に行って仕事はできる。注入されたものを

 わけのわからないもの、として体が反応しているのだろう。確かに、わけのわからないものだけど、きちんと2回の接種が

したかったなあと残念に思う。

 また緊急事態宣言が出たので、在宅勤務ができる日数が増えるかもしれない。8月は暑さが厳しいし、外ではマスクを外している人も多くなるのでできるだけ家に居たい。

 

 しんどくて、何かを書く、という行為はかなり難しい。かろうじて読書はできる。とはいえ体調不良なのでよほど力のある作品

しか心に響いてこない。  昨日は松下育男さんのZoomでの詩の教室だった。おでこに熱さまシートを貼り付けているような有様

だったので、Zoomはとても有難かった。 そして参加者の方々の朗読の声が、とってもいいなと思った。人間の声は、微妙な所を

現してしまうから。私は黙読にしていただいているのだけれど、他の人の朗読を聴くのがいつも楽しみ。

 

 

                                                                            2021.8.1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「2021年7月」竹井紫乙

 

薔薇の花びらが産む偽物の羽

 

何の卵をばらまいているのかな

 

何度も腐らせたゾンビのお祭り

 

目薬を垂らせば帝国が見える

 

ラメをまぶし過ぎたほっぺたの偽善

 

人工甘味料的残業代

 

瓦礫と瓦礫の隙間に妖精

 

 

 

 

 

 

「指」竹井紫乙  

 

うみ 言葉は指先から流れ出る

 

君と僕の指が離れない地獄  

 

世界は丸い 指を拾って歩く

 

ベールを被って売りに行く指先

 

 

 

 

『そら耳のつづきを』湊 圭伍 (書肆侃侃房)

 

書肆侃侃房からの川柳句集第二弾。

 

とても美しい色の表紙で、写真ではその色が上手く写せないのが

悔しい。装丁がとてもお洒落で文字の色も含めて素敵。

 

全部、連作。そしてその連作は十句。左右に五句。

だからシンプルに読みやすい。このシンプルさ、ということ。

これが作者の特徴と言えるのかもしれない。

有名な句のオマージュのような句が何句かあるし、あとがきでは律儀に

お世話になった方々の名前がずらりと並び、感謝の意を述べている。

シンプル。先達への敬意。律儀。定型詩である川柳を更に2ページの枠の中にかっちり収めて。枠の中の型。「現代川柳句集」とわざわざ書いてある。なんて真面目な本なのだろうか。私はこの真面目さに、夜半の道路の真ん中で思わず立ち止まってしまう。ような心持ちがした。タイトルの通り、そら耳を聴いたということなのでしょうか。川柳はそら耳。

 

 

  明日の国の向こうはきっと駐車場    湊 圭伍

  そら耳のつづきを散っていくガラス    〃

  風もなく火もないところにも会釈     〃

  きみの死をぜんぶ説明してあげる     〃

  韻でも踏もうかな戻るのも罠なんで    〃

  芽吹く木のもと人類も食用であれ     〃

  買ったばかりで溝に捨てるような青    〃

  駆けっこの先のテープが溶けてゆく    〃

  ベランダの手すりは大事それなりに    〃

 

句を抜き書きしてみたものの、連作としてパッケージされている句集ゆえ、一句一句の魅力は連作としてまとめて読んでみなければ

説明しても意味がないように思う。

書肆侃侃房からはまだ二冊しか川柳句集は刊行されていないけれど、川合大祐の『リバー・ワールド』と『そら耳のつづきを』の

共通点はパッケージ作品として提出しているという点。一句一姿という言葉が川柳を語る場合にあるけれど、その対極にある句の

提出方法をとっている。『リバー・ワールド』の最大の魅力はその膨大な句の量であり、作者の「読ませる力量」自体を味わえばいい。川柳を浴びる、という感覚だ。『そら耳のつづきを』は完璧な連作句集だから、まずは連作として楽しめばいい。

この二冊に共通する流れは、出版社として意図的なものなのだろうか。書肆侃侃房という出版社が「売れる」方法としてこういった句集を制作しているのか、現代川柳の提示方法として最適であると考えているのか、私にはわからないけれども、次にどのような川柳句集が刊行されるのかとても楽しみ。

 

 

                                               2021.5.26

 

 

 

 

 

 

 

 

最近、きちんと読むことができていなかった川柳誌を一気読み。

 

『川柳びわこ』2021.4  /  2021.5

 

  窓をあければ 淡谷のり子の声がする  辻野伸子

  難しい言葉で書いてある孤独      月波与生

  スカートを濡らしてしまう春の出汁   重森恒雄

  雑巾をきれいに縫ってから死のう    峯裕見子

 

『川柳びわこ』の特徴に、柳論が無いということがある。以前、編集をされている德永政二さんにこのことについて伺ったことがある。この柳誌にも長い年月が流れているのでまったく柳論を掲載しなかったわけではないこと、あえて掲載しない方針であることを説明していただいた。言葉の持つ力を甘く考えないということなのだろう。言葉はひとを助けることができる一方、大きな傷も負わせてしまうものだから。この方針をゆるい、と見るかどうかは意見が分かれるところとはいえ、同人結社である以上は参加者の大多数の意見を採るのは普通のことだと思う。

 

 『触光』57号 /  69号

 

  生前の花粉を礼服から払う       斎藤あまね

  物忘れしてさわやかなチューリップ   野沢省悟

 

川柳に関する論文とエッセイに「高田寄生木賞」を出している。こういう企画を行っている川柳誌はここだけだろう。掲載句への評の文章量もとても多い。月刊ではなく、年4回の刊行。にしても編集にはかなりの時間がかけられているに違いない。69号には第一回ℤ賞(1983年)を受賞された細川不凍さんの50句が掲載されていた。

 

  神と交わる母をみている長い冬  細川不凍

  春本や吾れに乾涸びたる揚羽    〃

  人買いが携えて来た星の数々    〃

  向日葵の首は折れたる夜のサーカス 〃

  十月の藁人形が身籠りぬ      〃

  蝶死んでわが眼球におさまりぬ   〃

 

 『月刊おかじょうき』2021年1月号

 

德永政二さんが選者をされているので以前から年一回、「杉野土佐一賞」という誌上題詠句会に出句している。だから年に一度は『月刊おかじょうき』を読むことができる。各選者の「読み」を読み比べする。掲載句を読むよりも、むしろ選の読み比べの方が面白い。『触光』も同じく青森の結社だけれど、こういう企画を継続することは大変なこと。青森県人のその底力に感嘆させられる。

 

  マスクは祈り な、そういうことだろう  吉田吹喜

  トーストの焼き方ニンゲンの焦がし方   奈良一艘

 

今回の杉野土佐一賞の題は「(^O^)/」。もはやこれが題なら、雑詠同然ではあった。(あるいは印象吟といったほうがいいのかも)出句者よりも選者が苦労することは目に見えており、各選者の力量が試されたのだと思う。だから今回の場合は句が抜けた、抜けなかった、なんてことはどうでもよかったのではないだろうか。ただし、こういう実験的な誌上句会はどんどん行われるほうがいいなという感想は持った。個人的には準賞の船水葉さんの句が大賞だったら面白かったのになあ、と思う。

 

  ココカラハ昆虫食ノ時代デス    船水 葉

 

 『川柳スパイラル』10号 / 11号

 

今日読んだ中では最も読みもののページが多い。自由律俳句、自由律川柳、短句、連句、と特集も幅が広い。まだ新しい柳詩なので、既存の柳詩がやっていないことをしているのは当然ともいえる。様々なジャンルとの交流が目に見える形で編集されていて、読んでいて飽きない構成となっている。

 

  とこしえを眼帯思想と呼ぶように      清水かおり

  文体が狂っていない沼描写         川合大祐

  サンシャイン・肺がつぶれた・マスカット  暮田真名

  帯締めの銀河の場所がいいんだよ      千春

 

11号の暮田真名さんのエッセイ「川柳で考え中」が興味深かった。時実新子の句、および『川柳大学』の会員句について書かれている。私は終刊まで『川柳大学』の会員であった。私と暮田さんはおそらく親子以上の年齢差がある。にしても中途半端に古い資料を読み込んでおられることに驚いた。時実新子について本気で調べるつもりなら普通は第一句集『新子』を読もうとするだろう。時実新子は著作が多い作家だったからエッセイ集などは普通の図書館に残っている可能性がある。もっと言えば『川柳大学』にかつて所属し、川柳の活動をしている人たちはまだまだ存在している。その人たちにコンタクトを取ったことがあるのだろうか。研究というのは取材と同じで、書物を読むだけではできないのではないかと思う。私だったらまずネットでヒットする時実新子のホームページの管理人である芳賀博子さんにコンタクトをとるだろう。『川柳スパイラル』には畑美樹さん、重森恒雄さん、丸山進さんなどかつて『川柳大学』に関係していた人たちもいる。取材してみたのだろうか。それともこういう発想は私が図々しいだけなのか。  

当たり前のこととして批評や研究は自由にやっていいことで、暮田さんの感想として「分からなかった」と書かれている、要約すれば時実新子の川柳は面白くなく、なぜ人気があったのかがわからないという、暮田さんの感じた違和感は大事な感覚だと思う。今後そこを掘り下げるのかどうかはわからないけれど。

 

 『杜Ⅱ』杜人同人合同句集

 

  2020年冬号で終刊された『杜人』会員の合同句集。この柳誌も読みもののページがたくさんあった。少数精鋭ということの意義を考えさせられる。緑が美しい。

 

  耳そうじしてせんそうの音を聞く     都築裕孝

  割箸でつかみそこねる非日常       浮千草

  点線をたどればきっと鳥になる      大和田八千代

  戸籍謄本戸籍抄本枯野菊         加藤久子

  たすけてくださいと自分を呼びにゆく   佐藤みさ子

  菜の花の中で骨折してしまう       鈴木逸志

  美しい灰になろうと歩く日々       鈴木せつ子

  革命を考えているおばあさん       鈴木節子

  うっかりと生まれてしまう雨曜日     広瀬ちえみ

 

 

                                               2021.5.5

 

 

積読ってよろしくないなあと思いつつ、なかなか解消されない。

連休中は何とかこれを減らそうと考え読書、とはいえ他にも用事はあるので一日中読書というわけにもゆかず。本を読むにも体力が要る、だなんてこれまで思ったことはなかったけれど、気力以上に体力が必要かも。

 

島村美津子さん、小林康弘さんの句集を読む。たまたまなのか、二冊とも手のひらサイズの句集。

 

小林康弘さんの『どぎまぎ』は第二句集。今回は完全な自選句集とのこと。第一句集は時実新子の選句で十四年前のものなので、句集の雰囲気がかなり異なっている。きっと今回の句集こそが作者の考える、現在の身の丈に合ったものなのだろう。前作よりもかなり厳しい内容の句群で構成されている。作者の「ここをこう読んでほしい」という意図が明確で、いわゆる”捨て句”が掲載されていない。これについての是非は読者の好みによるけれど、タイトル通りどぎまぎ。

 

  剥き出しの粘膜で春迎えおり   小林康弘

  双眼鏡のなかに暮らしている婦人  〃

  薄暗い歯科を訪ねる賢治の忌    〃

  それはさぞ重荷でしょうと奪われる 〃

  履歴書の月光を見て欲しかった   〃

  しあわせになった信者に囲まれる  〃

 

島村美津子さんの句集『われもこう』は代表作を中心とした構成になっているので、九十歳の記念に制作されたのだろうか。キャリアの長い書き手であれば、こういう形態の句集もいいものだなと思う。(作者はすでに何冊か句集を出しておられるので)

 

  あんぱんやひとりぼっちになりました  島村美津子

  お姫さま何もしないで立っている      〃

  何もかも衰え耳が美しい          〃

  かき氷崩す八月十五日           〃

  月がきれいで戦争を思い出す        〃

  貴婦人のように淋しいスープ飲む      〃

 

年一回刊行の『川柳の話』第2号は、森中惠美子さんの特集。個人的には初期作品に加えて森中惠美子さんの自選句を、それも近年のものを、出していただいても良かったのではないかと思い、さらにご本人へのインタビューなどを読んでみたかった。諸事情があるに違いないけれど、もっと現役作家として掘り下げた記事を、と欲張ったことを考えてしまうのでした。

エッセイでは楢崎進弘さんの「震災句、わたしの場合」が心に残った。阪神大震災の被災者として、震災句について「書けない」ということについて率直な意見が書かれている。”川柳を始めたころ、川柳は何でも詠むことができると教わりました。そんなことはないと今では思っています”とのこと。私はこのようなことを誰かに教わったことはないけれど、川柳で書けないことはある、と思っているのでそのことをあらためて考えました。

 

 

                                                          2021.5.4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

私は丁寧に作られた「本」という物体が好きだ。表表紙をはがし、本体を確かめ、触ってみる。配色、文字の大きさ、色々眺める。

素っ気ない感じの文庫本もいいけれど、句集や歌集は凝ったものがけっこうあるので楽しい。

 

川合大祐さんの第二句集『リバー・ワールド』は一目見て、岡本太郎やん!って思った。本のデザインがとにかく素敵。これは大事な要素だ。何にとって?それは川柳にとって。見た目、大事。

第一句集を読んだ時同様、とても「ザ・川柳」な句集なので。

 

面白いのであっと言う間に読めてしまう。編集も巧みであるし、川合さんの句は基本的にリズムがとてもきれいだから。

 

私の句は水分が多い目だという気がするけれど、この句集に水分はほとんどない。それが川合さんの川柳なのだろう。赤塚不二夫的というか。こんなに川柳らしい川柳を書いて句が成立している書き手って少ないんじゃないかと思う。この句集は川柳そのものの姿をしている。私は川合さんは江戸時代の川柳書きに近いひとなんではないかなと考えている。意外と原点回帰的な。

 

 

                                           2021.4.19

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『のほほんと』野口裕さんの俳句集。

 

大阪はもう桜が散ってしまっているけれど、

この句集には桜にまつわる素敵な句がいろいろある。

 

  この世から染井吉野の無人駅 

  金曜の透明傘に花が着く

  文字化けの海にたたずむ櫻かな

  花降れば脚の短い犬が来る

 

短い桜の季節はいつも夢のようだと思う。夢の季節には夢うつつになってぼやけた世界に身を浸すだけでいいのかもしれない。

 

  フィニッシュはどないすんねん烏賊の墨

  肉球のなきこの身ゆえ底冷えす

  レジの端のおでんはしばし夢を見る

  仕事帰りに入道雲の大人買い

 

どうしようもないことはどうしようもなく受け止める。しかないような気もするし、そうでないような気もする。私は友人と一年ばかし会っていない。親戚とも会っていない。電話とか、メールとか、LINEやZoomを使った会話ならしているけれど。職場のひとたちとは日々、顔を合わせ、喋り、関わっている。なんだか矛盾している。

 

  さえずりのひとつとなりぬ人の声

  灰の一部しか不死鳥になれぬ

  コンセント差すなコロボックルが死ぬ

 

昔から街中にはホームレスのひとがいる。私が子供の頃は浮浪者と呼ばれていた。街中にいる理由は単純で生きてゆけるからなのだろうと思う。去年から、会社のまあまあ近いところで数人の路上生活者のひとたちがぽつりぽつり、現れた。最近になって彼らは忽然と消えたのだけれど、消え方が謎めいていて、何が起こったのか不可解だった。コロナと関係があるのかないのか不明ではあるけれど。もう、街中では生存できないのかもしれない。

 

  お茶漬けの渚の骨を噛み砕く

 

この句集はコロナ禍の起こる前に制作された本。そのせいか読んでいて懐かしい気持ちになった。何が懐かしいかというと、句集を読んでいてのんびりできた気分が懐かしいということ。ぴりぴりしていない空気がパッケージされていて。

気持ち良く読むことができて嬉しい一冊。カバーを外すと紺色が現れる。その内側には、からし色が配色されていて、お洒落。

 

 

 

                                               2021.4.19

 

 

 

 

 

 

 

 

                                            

 

  

 

 

 

  

『垂人』39号

 

 紙袋ささっと入れる天使の輪  広瀬ちえみ

 

深読みを誘う一句。でも平たく読むほうが楽しい。

 

 鈴木のバター炒め佐藤少々   中内火星

 

こちらは見たまんま楽しめばよい句。鈴木と佐藤の世界はどこまでも奥深い。

 

 淀川を渡り忘れたマスクかな  野口裕

 

おかしいようなかなしいような。最近はマスクの値段が一時よりも下がってきた。去年の今頃はなかなか手に入らなくて手作りしていたのだった。一年後には変異株で大騒ぎになるとは思ってもなかったなあ。

 

 「あしたはすし あしたはすしだー」そうね  高橋かづき

 タオルからママの匂いがするという        〃

 服縮む毎日少しずつ縮む             〃

 トンネルの向こうも向こうもトンネル       〃

 思い出の中から這いのぼってくる虫        〃

 

美味しいものを食べること。これに勝る嬉しいことは今、何だろう。タオルを顔に押し付けたときの匂い。誰かと抱きしめ合うこととは何がどう違うのかを深く考えてしまう。出口が見えない毎日の中でも変化し続ける体。時間を遡ることはできないから、過去からやって来るのは虫である。高橋かづきさんの連作のタイトルは「明日は」。明日は、を重ねてゆくしかできないな。とりあえず後ろを振り返ることはしないで前を向いていこうと思う。

 

                        

                                                   2021.4.18

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今週は野沢省悟さんの川柳についての評論集をずっと読んでいた。

Z賞のことなど、詳しいことがわからなかった件についても丁寧に書かれていて、とても読みごたえがあった。

こういう評論の本が広く流通するようになればいいなと思う。

今週は川合大祐さんの第二句集が発刊されて、しばらくはこの句集のことが話題になると予想される。

ついでに、というと申し訳ないようだけれど、評論集も広がればいいなあという期待をしつつ。

 

                      2021.4.11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『川柳 びわこ』2021.3月号

 

逃げるか抱きつくか一本道がある   中嶋ひろむ

 

 一本道であるところが面白い。この断言が川柳だなあと思う。現実には、色んな道が

存在していて迷うのが普通だから。

 

深すぎるソファー溺れるではないか  大橋啓子

 

 誰のせいでもなく溺れそうになっているに違いないのだけれど。ソファーに溺れるって

いいんじゃないか。そのまま黄泉の国へ行ったきりになってしまいそうな。

 

全身を瓶に詰めてるところです    岡本聡

 

 長期保存するのでしょうか。塩漬け、酢漬け、想像すると怖いです。途中の姿はもっと

恐い。ガロ。

 

 水仙と書きすいせんと書き直す   笠川嘉一

 

   水仙、推薦、水栓、水洗、水戦、酔仙、水泉・・・。ひらがなマジック。推敲過程を書いた川柳はちょっと珍しいかも。

 

 

やがてフクロウは風船になりゆく

枯草を集めて綴じる冬の本

正がとろけて義が焦げているお皿

ヨーグルトの谷間で待ってる救助

くるま 予定調和の花束届く          竹井紫乙

 

 

 

 

 

 

「化粧品」

口紅をのせると細胞は増える

冬にとろけるリップクリームの味

永遠に乾かないマニキュアの意思

バリケードの場所にとろみ化粧水  

                      竹井紫乙

 

 

 

 

 

『川柳 びわこ』2021 2月号

 

先月末あたりからの在宅勤務で生活リズムが崩れてしまっている。

親戚の介護の手伝いで母がちょこちょこ数日間留守にするので、在宅勤務の方が助かるのだけれど、一人で家事をこなす出勤の日は4時起きだから在宅勤務の時とは起床時間が3時間差がある。生活リズムって、本当に大事なものなのだなあと実感中。(要するに体調がよくない)

リズムといえば定型詩の命ともいえる要素だ。別に5・7・5で区切る必要はないものの、読み上げた時にぎくしゃくしていない句はいいなと思う。

 

  すみれ色だったわねえと振り返る  清水容子

 

この句の場合は「え」のところでひと区切りして読むのがノーマルパターンだろう。すみれ色の景色ってどんなものだろう。私にすみれ色だった頃ってあったっけ。まだないような気がする。もうちょっと先にある世界なのかも。

 

宿題に「椿」が出ていて、掲載句が興味深かった。

 

  落椿もう忘れたわ生理痛      谷口文

  女でなくなった 椿の木になった  峯裕見子

  涙もろくなった椿の更年期     北村幸子

 

この宿題を私はやっていなかったので椿について思いを巡らすことがなかった。私だったらどんな句を書いただろうかと考えてみた。真っ先に思い浮かぶのは椿シャンプー。椿をモチーフにした和菓子。松花堂庭園。

 

  椿から椿を歩くものがたり     德永政二

 

男女関係なく、しぶい句が多くなるのが「椿」。

 

在宅勤務や家事の合間を縫って、青森の川柳結社『触光』の高田寄生木賞に出すエッセイを書いていた。

川柳に関する論文・エッセイを募集されていて、他の方の提出された文章は以前にも読んだことがあったものの自分が何か書いてみようと思ったことはなかった。ひょんなきっかけで書き始めてみたのだけれど、漠然とした感覚で書き始めてしまったのでまとめるのに随分時間がかかってしまった。それでもつらつら書いている間はずっと川柳のことを考えていたのだから良い時間を過ごしたのだろうと思う。文章にすると自分がこれまで考えてきたことが可視化されるので書いたものをチェックする度に「へえー」などと言いながら書き直したり、書き継いだりしていた。自分の思考すら、私は把握できていなかったのだろうか。いい加減なものだ。

何でもやれる時にやれるだけのことを行うだけ。ただこれだけのことがとても大事なんだな。

 

  点となりそしてはいってゆく夜に  笠川嘉一

 

       

                                                  2021.2.20