『スヌーピーミュージアム展』へ行く。

 

原画を見るのが目当て。予想通り来場者はたくさんで、原画が撮影OK。サザエさん同様、スヌーピーがスヌーピーとなるには様々な変化とそれなりの時間があって、最初、ただの犬からスタートしている。最も驚いたのはウッドストックの原型が本当に普通に鳥であったこと。(まあ、考えてみれば当然なのだけれど。)原画はとっても素敵で迫力がある。

 

3歳くらいから私にはスヌーピーのぬいぐるみが与えられていて、今も部屋にある。母が大切に服を作ってやったり、洗ってやったりしていたおかげであまり傷んでいない。幼児の頃、アメリカの薄っぺらい雑誌のようなものにスヌーピーの漫画が掲載されていて、父が読みなさいと言って手渡してくれたけれども、英語ばっかりでよく意味がわからなかった。

 

中学生になって、やっと学校の図書室にある日本語訳の本を手にとって読んでみた。訳者は谷川俊太郎。今読めば、素晴らしい翻訳であることがわかるのだけれども、私にはどうも早かったようであまり感動した覚えがない。でも今回改めて原画と同時に書かれた言葉の数々を目にして、不覚にも何度も会場内で泣きそうになってしまった。本当に大事なことは、圧倒的にシンプルに表現され得る。子供の頃にわからなかったことがわかるようになるのは、いいことでもあるし、少しかなしいことかもしれない。

 

そして今日はミュージアムグッズなんか買わないんだから、と思っていたのにまんまといっぱい買い物をしてしまったのだった。

 

                   

                                                    2019.5.19

 

中之島は薔薇の季節で、通勤の行き帰りに花を眺めるのが楽しみ。

 

薔薇には様々な名前が付けられていて、プレートを見るのも面白い。今のお気に入りは「うらら」という濃いピンク色の薔薇。植物は光を求めるから、川の方向に向かって咲いてゆこうとしている。手入れしている側としては、歩道の方に向いてほしいところだろうなあと思いながら、植物の正直さを愛でる。

 

川には魚もいる。時たま魚が跳ねているけれど水鳥の餌になっているらしく、鳥は川面をじっと見つめて微動だにしない。鳥の背中は大きいなあとどきどきしながら、私はその鳥を見つめて写真を撮ったり。

 

川沿いの道は美しい景色ばかりではなく、ホームレスのおじさんがいたり(一人か二人くらいしか見たことはないけれど)、朝から頭を抱えてベンチに座り込んでる男の人がいたり、どう見ても誰かが(カラスではなく)投げ飛ばし、撒き散らしたとしか思えない様子で不思議なごみが散乱していたりすることもある。そういう歩道で、彫刻作品や、薔薇や、樹木や、高価そうな犬や、通勤する人達とすれ違う。次の交差点に到着すると、車と人間の川が絶えず大量に流れている。

 

どうしようもない姿。を世間に晒してしまうのが男の人の方が多い、のは昔からなのだろう。女の人とは身の危険度数の違いというものがあるから。ベンチでひっくり返っているおじさんを見ると、ああいう真似は出来ないな、何故なら危なすぎる。と思う。ああいう無防備さがまかり通るのは日本だけなのかもしれないけれど。

 

久しぶりにおじさん達に囲まれて(とはいえ全体的には女性が多い)仕事をしてみると、色々気付くことがある。

人間って興味深い生き物であるなあと思いつつ、まだまだ覚えることが多いのであっという間に終業時刻になってしまう。

 

                                                2019.5.18

 

 

 

 

暑い。まだ5月なのにすでに夏。

 

新しいことを覚えることは面白いことなので、会社の仕事は面白い。慣れなくて困ってしまうことも色々あるけれど、あろうことか

仕事が楽しい。なんてことだろうと思う。直属の上司がかなり気をつかう人で、部下に毎週金曜日にお菓子やアイスを御馳走してくれる。この人が上司の間だけのこととはいえ、ハーゲンダッツのアイスは美味しいのであーる。

 

第三句集の句稿はすでに完成していて、その他の作業に取り組んでいる。私は不器用な人間だから、いっぺんに沢山の事柄を処理することが出来ない。転職して、新しい仕事に取り組んで、家のことをやって、句集の作業をしているだけでもうかなりいっぱいいっぱい。日常の些末事というのは積み上がると後が大変だから、放ってはおけない。で、しばらく句作から離れている。『川柳びわこ』の同人なので、何とか少しは句を書くことが繋がっているという状況。

 

先日、久しぶりに句会に参加させていただいた。気の抜けた状態で句を久しぶりに書いてみた。するする書けた。句を書くことは、相変わらず面白かった。こういう、ぼんやりした気楽な感じで句を書いてゆくのもいいなあと思う。

 

『川柳の仲間 旬』2019年5月号を読む。

 

  人間の溶ける形に雪のこる

  春どこかで誰かが玉手箱を開けた

  首が音を上げる頭のおもたさで

  キャッシュレス決済 桜散りなさい     大川博幸

 

大川博幸さんの『春』という題の連作。この連作にちなんだ短いエッセイも掲載されている。北国のひとは春に対しての感覚が、関西の人間よりも、もっと鋭敏だ。「春はさびしい季節である。」という書き出しで、「風邪をひかないように気をつけなきゃ。」という一文で締めくくられている。素直に句を書く、ということを改めて考えてみたくなる句群でした。

 

                 

                                                    2019.5.12

 

 

 

 

 

今年の連休はこんな感じ。←

 

昭和天皇の時とは大違い。井上陽水が「お元気ですか~?」と言うCMは批判を受けて音声が消されていたことをまだ覚えている。崩御の日には、友達に「ミナミに行かない?」と誘われて断って自宅にいた。繁華街のネオンは一斉に消され、心斎橋は真っ暗だったそうだ。

 

今回のようなお祭り騒ぎは私にとってはちょっとした驚きだった。

 

非正規で働く身にとってはただ、収入がなくなることしか意味しない。

 

 

                                   2019.5.6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近所の図書館では、古くなった本、動かない本などを<リサイクル図書>という棚に置いて、簡単な手続きで来館者に放出している。タダなので、時々チェックする。

 

先日は1985年刊行の『日本の恋歌』というシリーズものの第一巻を持ち帰ってみた。

発行が㈱作品社。監修は谷川俊太郎。34年前だからこの頃はまだ昭和で、私は中学生。

きっちり透明なテープで保護されていたので、全体があまり傷んではいない。

 

内容は和歌、短歌、俳句、詩、歌謡曲の詞、で構成されている。冒頭の谷川俊太郎のエッセイが秀逸。 歌謡曲などはさすがに知らない歌がけっこう多い。

企画としては面白い本。レイアウトも凝っているし、中の字の色は全部、紺色。

いかにも80年代的だなあー。と思う。

 

中でも阪田寛夫の「葉月」という詩が最も印象的で、今度はこの人の本を読もう。と、芋づる式に興味が湧くのがアンソロジー本のいいところ。

 

 

                           2019.5.4

 

 

 

 

 

 

 

                             

飼っていた生き物が亡くなるのは初めてではないけれど、去年見送った犬は一番長生きした生き物だったのでこれまで以上に感情移入しており。

 

遺骨は暫く家に置いていた。寝る時に枕許に置いてみたり(よく一緒に寝ていたから)、時々骨壺を抱いてみたり、していた。

 

人間に事が起これば、犬の遺骨はただのゴミとして扱われて処分されてしまう。だからきちんと動物霊園に納骨しておかねば、ということで予約をして霊園へ出掛ける。合同供養の日で、沢山の人がお参りに来たり、納骨したりしていた。お坊さんにお経をあげてもらう。

初めて骨壺の中味を見た。飼い主が自分で骨を収めるのだけれど、ちょっと焦げた色が所々付いた骨は、撫でてみれば生きていた時と同じ形で、何度も撫でていたおでこ。久しぶりに頭部を触っていたらかなしくなってしまって、さびしくなってしまって、もう泣いたりしない、と思っていたのに泣いてしまった。

 

骨の威力はすごいのだなと気付く。

 

その後は母と食事に出掛けお互い食べたいものを食べ、買い物にゆき、本や傘を手に入れ、なんだかわからないけど和菓子や洋菓子やパンなどを次々購入し、帰宅してからケーキをいただき、苺とバナナとクリームたっぷりのクロワッサンサンドをかじり、ちまきを一口。さすがにお腹が苦しくなって、馬鹿みたいだ、でもこんな日があってもいいんだ、ということにする。

 

                                                   2019.4.28

 

 

 

 

 

新しい職場に慣れてきたなあ、というタイミングで連休。

いいんだか悪いんだか。ただ今年は例年通りに夏季休暇をとることは多分ないので、今年唯一の長期休暇ということになる。だから有難いと言えば有難い。 仕事はざっくりと把握できたのでちょっと安心。働く環境は以前と比較して、とても良い。

 

『はがきハイク』第20号が届く。

 

  魚の耳すすいで春の水となる  笠井亞子

  

  大田区にあるもつちりとした部分   西原天気

  たぶん春うどんのごとく眠りこけ    〃

 

短詩の世界のいいところは、自由であること。自由に書いて、気楽に読んで構わないところ。

軽やかな春である。私にとっても、幸い今年の春は軽かった。(まだ花粉が飛んでいるから終わってないけど。)

去年の春は重かったことなどが後頭部に微かによぎる。よぎって、通り過ぎて行く。

 

うどんのように。

 

 

                                                  2019.4.27

 

 

 

 

 

 

 

退職の際、同僚の方がアーティカルフラワーを作って下さった。毎朝、お花に向かってなんとなく挨拶したりしている。

 

先週は間を置かず転職した私を気遣って、ちょこちょこメールを下さる人達がいた。有り難いことと感謝。

 

新しい職場は規模が前より小さいので、その分色々行き届いている。最初のうちは暫く研修期間。職場が違えば細かいルールなども違う。社内のシステムも全く違うし、上司及び会社全体の考え方がまるで違うので、その辺を理解することが必要なわけだけれども、同じ環境に居続けるとどうしても「飼い慣らされ感」が染みつくものだなあと改めて感じる。

労働することは決して嫌いではない。むしろ、出来る限りはずっとやるべきだと思う。ただ問題はその環境。

 

転職先へ行くにはこれまでと同じ駅で下車して、違う出口から違う方向へ歩く。簡単に説明すれば一つ筋が違うだけの位置。それでも角度が変わると見える景色はまるで別物で、「世界は広くて、私はほんのわずかな部分しか知らないでいる」という事実を日々考える。

 

                                                      2019.4.21

 

 

 

 

 

建築家の藤井厚二が昭和5年に建てた木造二階建て住宅の見学会に参加する。

以前大山崎の聴竹居の見学をしていたので、同じく合理的なつくりに感心しつつ、説明を伺いながら見て回る。

300坪の敷地内には新しい別の家があって、そこで現在の当主がお住まい。基本的に個人の持ち物なので、撮影した写真はアップできないけれど。(購入当初は400坪だったとのこと。)

女中さんを置くのが前提のお宅なので、最近の戸建て住宅とはまるで動線は違うけれど機能的で、通気性に優れている、窓の大きな明るいお家。

 

私はお手伝いさんを雇うような身分ではないので、掃除が楽な平屋やマンションがいいと思っている。日当たりが良ければなお良し。そして木造が好み。

 

寝屋川市の香里園という土地のことは何も知らないのだけれど、今日訪れた一帯が「淀見ケ丘」とかつて呼ばれ、淀川が見渡せたという説明には時間の流れを感じた。いい呼び名。今は高層マンションが多く、もう何も見えない。

 

90年近く前に建てられた家に今でも見学者がやって来たり、傷んだところを補修しながら研究する人達がいたり、素敵な事と思う。

 

                                                 2019.4.14

 

 

 

 

 

 

 約13年、勤務していた会社を昨日辞めた。今まで働いた中では一番長くいたことになる。

 その前は10年で、中小企業の数人の部署で、辞める時私はお菓子を配り、夜に送別会をしていただいて、大きな花束をいただいたりした。いたって普通。

 これまでいた会社はあまりにも人数が多く、いわゆる「関西のおばちゃん」だらけで、いちいち全てが大袈裟で、面倒くさいのだった。特に親しくなくとも誰かが退職する時のみならず、ご家族に不幸があればお悔やみの品をおくり、おめでた事があれば、お祝いの品を贈り、何だか親切なような、迷惑なような、習慣。

 それで「お餞別の類は辞退します。」と事前に表明していたのだけれど、これが仇となった。というか、「おばちゃん」はこういうことを、決してゆるさないのだということを思い知ったのだった。

 結果として、私はなんだかんだで夜の食事を御馳走になり、また別の日にはお昼御飯を御馳走になり、色んな人から抜き打ち的にプレゼントを沢山いただき、全然、お餞別の辞退など無効であった。びっくり。うっへー。

 慣例、というものの強力さを実感してしまった。当然のことながら、去ってゆく立場の私はお菓子を抱えて最終日にあちらこちらへご挨拶した。「おばちゃん」から見れば年齢的にオバサンの私はまだ若いのだそうだ。なんじゃそら。

 

 仕事のやり方も、雇用のされ方も、とても変化が激しかった。様々な立場の女の人が沢山いる職場で、”おんなのひとであること”

について、考えさせられることが多かった。おばちゃん世界の善意と悪意と承認欲求。

 

 

                                                2019.4.13

 

 

 

 

 

 

 

 

今週末で現在の勤務先との契約終了。色んな種類の休暇が残っているので、本日一日くらいは使わせていただく。(この先しばらくの間は有給休暇というものは無い。)

 

幸いお天気に恵まれた一日を過ごす。

大阪市立美術館にて『フェルメール展』。前回も、といっても随分前ではあるけれど、同じ美術館でフェルメールの絵を見たことがある。その時も平日に休暇を取って、朝から観に出掛けた。

今回は6点で前回より数が多い、とはいえ『~展』と銘打つには少ないわけで、会場の前半は正直言ってかなりどうでもいい感じの絵画が並び、おじいさんが係員に「一体どこにフェルメールの絵があるんですか?」と尋ねていた。

 

日本初上陸、ということでチラシの全面に印刷されているのが「取り持ち女」。時代背景やら詳細を知れば面白いかもしれないけれど、ただの酔ったおじさんに若い女が乳を揉まれている図で、男からお金を受け取る瞬間の光景。

全然、つまんない。今見れば、別にスキャンダラスでもないし。会場にいたおばあさんたちも「これ、他人におすすめしにくいチラシやなあ」とぼやき。

 

他の初期作品以外の4点はとても素晴らしく見応えがあって、会場内は行ったり来たりしてもよい、とのことだったので、3度見くらいは、した。この4点だけでも、来場した値打ちは充分あった。フェルメールの晩年(早死にだから実際にはまだ若かった)の作品と、その約5年前の作品では全く描き方が違うので、別の作者だと言われれば信じてしまうかもしれない。絵の中の光の柔らかさは、障子を通した光に似ていて、全く日本人好み。

 

昔の展覧会の目玉は「真珠の耳飾りの少女」。朝いちばんに入場したからほとんど独り占め状態で眺めていた。これまで眺めてきた沢山の絵画の中で、最も美しい一枚だと今でも思う。何故か会場入り口には宮本武蔵の描いた絵が展示されていて、不思議に思ったことを覚えている。あの時に働いていた会社と、今の勤務先は違う。展覧会の後、友人に会ってそこの犬の散歩に付き合ったのだった。その犬も、もういない。私は来週には今の会社にはいない。

 

                                                2019.4.9

 

 

 

 

 

今年のお花見は金曜日の夕刻から日曜日まで三日間。

大阪市内の靭公園、京都府八幡市の背割堤、大阪府枚方市の牧野、山田池公園。桜を見るためだけに生きているかのような気分になる。そして勿論

、それでもいいのだと思う。

 

                       

                         2019.4.7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近所の桜はまだ三分咲き。天気は良くても風が強く、まあまあ

寒い。満開はまだ少し先。

 

休日には時折、某宗教団体の人達が広報活動で玄関先にやって来る。どの街に引っ越ししても、こういう人達が訪問してこなかった地域は無い。考えてみればすごいことではある。

昨日やって来たおばあさん(80歳代くらい)は、うっかり玄関を開けてしまった私にiPadを見せ、「ぜひお目にかけたい動画があるのです。」と仰る。丁重にお断りする。冊子も辞退。しかし、昔と違ってその冊子は薄い一枚のチラシに変わっていた。そうか、時代は変わったのだなあと実感する。コストカット。わかりやすさ。

 

母の希望で家から一番近い葬儀社へ行く。色々なプランを教えていただき、会場の見学。私は昭和生まれなので、いわゆるオーソドックスな葬儀を知っている。遠縁のおじいさんが亡くなるところを、ご自宅で立ちあわせていただいたこともある。家で行う葬儀、葬儀社で行うこと、宗教性を一切排除するパターン。色々あるけれど、母の考えと私の考えをある程度擦り合わせておくことも大事なので、有意義なことだった。

 

変化することは当然の流れとはいえ、スピードがどんどん速くなっているなあと思う。もしかするとこれまでが遅すぎたのかもしれないけれど。私の勝手な予想は、定年が65歳にのびる、あるいは70歳まで働くことが普通になること。そして介護の現場から人間が減ること。私がもしも長生きしてしまって体が不自由になったら、ロボットのお世話になるのではないか。むしろ、会いたい。ロボット。変化を面白がりつつ。

 

  また今年タンポポとして生きる町   三塚まゆみ

 

                                                  2019.3.31

 

 

 

 

 

 

 

 昨日は夕方から時間の余裕ができたので、柳誌を二冊読んでいた。最近は残念ながら集中して読書をするのが難しいので、久しぶりの、読む行為。

 少しずつ、読書の時間をまた増やせるとは思うのだけれど。(読んでない本が増えてくるとうっすらかなしくなる。)気分転換に絵本を読んだりしている。絵本の世界はいつでも素敵で、短時間で気晴らしができるところがいい。

 

 短時間、といえば短詩だってすぐに読み流しできそうな気がするけれど、自分が書く人であるせいか、やっぱり読むのに時間がかかる。

 

 『川柳 びわこ』の3月号を読む。

 

  減る音と平らにという音を聞く  竹内歌子

  春の色使わず春になりなさい   月波与生

  水の無い川が流れている背骨   佐藤正昭

 

共通しているのは「喪失」であるなあと思う。失うことはまだ、私にとってはかなしいことばかりを意味しない。また新しいものを受け入れることが可能だから。そしてこの三句にも、かすかな明るさが宿っている。

 

 『川柳 スパイラル』5号

 

読み物のページが多いのが楽しみな柳誌で、今号は飯島章友さんと新木マコトさんが歌人の萩原慎一郎さんについて対談されていて、とても内容が良かった。萩原さんへの愛を感じました。

 

  その鬼は鬼ヶ島から逃げ延びて

  そーめんよ残り少ない前略よ

  意識から無意識へ行く柿の種    石田柊馬

 

 転職前でばたばたしているせいか、とても心に残った石田柊馬さんの連作。連作のタイトルは「逃げ延びて」。現実社会で逃げ延びるということは言い換えれば、運がいい、とか先読みの力がある、ということになる。何から逃げるのかが問題ではあるけれど、死ぬことからは誰も逃げることはできない。

 

 人数の多い会社だから、とは言え今年は鬱病で退社する人がとても多かった。鬱病で復帰する人は極端に少ない。そして私が退職することを上司に伝えた数日後にチーム内の正社員の一人が心の病で突然お休み。診断書が出て長期休暇に入った。いつも冷静で淡々とした方だっただけに、すぐ近くにいた人達は動揺してしまい、上司も人員の手配で大変そうではあった。

 

 石田柊馬の書く「残り少ない」と、私の持つ感覚としての「残り少ない」は随分、中味が違うだろうけれど、社会生活は「そーめん」みたいでもあるな、と考えれば何も恐れることはないし、鬼ヶ島だってひとつではない。みんなが鬼なら私も鬼。

 

                           

                                                    2019.3.24

 

 

 

 

 

 

 

 

  マジックアワー粛清は始まっている   笹田かなえ

 

 来月、現在の勤務先を退職して別の会社に転職することになった。新しい仕事をするにあたって準備しなければならないこともあるけれど、ぎりぎりまで出社してほしいとのことで、話し合いの結果、引継ぎのことも含めて有休消化はなしで出勤する。

 このことは別に自分としては構わない。問題なのは退社の挨拶や、お餞別の類のこと。

 長い間勤務しているうえに大人数(ワンフロアに300人以上が在籍している)の部署なので、ほんの少しの関わりを持っただけの人達は、軽く100人は超える。きちんと仕事上、或いは個人的に関わりが深い人は大体20人程。

 この先もつきあいが続くであろう人達とは今後も顔をあわせるわけだから、それはそれとしてその他の人達には、自分のことなどさっさと忘れていただいて全然構わない。こそっと消えようと思う。だから「お餞別の類は辞退します。」と何人かに伝えたのだけれど、どうもこの言葉が正しく伝わらないので困っている。「遠慮とかしてません。本当にやめてほしい。」とまではさすがに言いにくい。

 過去に、やり過ぎと言っていいくらい各人に豪華な贈り物を渡して去っていった人がいる。皆は「あの人は、盛大に送り出してほしいからあそこまで大袈裟なことをやっているのよ」と言っていて、確かにそうだったのかもしれない。そんなに頑張らなくても、じゅうぶんインパクトの強い人柄だったから、「誰もあなたを簡単に忘れたりしないですよ」と言ってあげたほうがよかったのかもしれないし、自己満足の為だったのかもしれない。

 

                                                     2019.3.18

 

 

 

 

 

 

 

 

 Twitter上でも告知されているのですが、「筒井祥文を偲ぶ会」が来月4月20日の土曜日に催されるそうです。

 

 場所:スタジオなつメロふるさと

    〒602-8148

    京都府京都市上京区丸太町通堀川西入北側 京都二条ハイツ地下一階(ファミリーマートの地下だそうです)

 時間:14時から

 会費:6000円(故人の句集制作費用を含む、とのことです)

 

 参加希望の方は事前に「川柳 北田辺」主宰のくんじろうさんへ連絡要。

 

 私はこの日は参加ができないのですが、御香典の気持ちで会費をおさめさせていただくことにしました。

 盛会になることを祈念しつつ。

 

                                                     2019.3.10

 

 

 

 

  庭下駄ふめばからくりと晴れわたる  筒井祥文

 

 『川柳結社ふらすこてん』を昨年に解散された筒井祥文さんが逝去されたとのこと。実際には、ほとんどお付き合いなどなかったのにもかかわらず、お世話になった気持ちがあるということは、やっぱりお世話になったのだな、と思う。こういうのを人徳というのだろうか。とにかく、川柳を書く人間なら誰でも受け入れる懐の深さがあった。

 

 句集の感想がとても丁寧で、これはどなたに対してもやり続けておられたのではないかと推察されるのだけれども、一句一句、きちんと読み込んで下さっていた。印象的なのが拙句集『ひよこ』に対する感想文。ベスト10なども書いてあって、それが意外な程にいわゆる伝統川柳系の句ばかりチョイスされていたこと。

 

 同じことの繰り返しに進歩はないし、同じ環境でぐるぐるしてばかりいては腐ってしまうし、短詩の世界にも、鮮度を保つ為の努力というのは必要なこと。おそらくそういったことにとても敏感な方だったのではないかと思われる一方、とっても「保守」でもあったのだなということが、いただいた感想文からよくわかる。私の祥文さんの印象は「典型的な京都人」。

 

 筒井祥文さん選の句。『ひよこ』から。(  )は祥文さんの評。

 

  何一つ手に入らないウィンドー   (上手い伝統句。こういう句もお大事に)

  まんなかにふやけたうどんでんとある  (「ふやけたうどん」はもう如何ともしがたいこと)

  こうなるとかばいあうしかない二人  (いろいろなストーリーが展開できます)

  きれいにも無残にもなれ赤い花    (啖呵の句)

  運命が変わるテレビを見てしまう   (なきにしもあらず)

  幸せで布をひらひらさせている    (そしてこのバカバカしさもよい)

  待ちぼうけ王子も王になったろう   (この誇張はよい。永い時間)

  繰り返し汚れた壁に照るライト    (これが現実の社会というもの)

  死にました焼いておいたらいいですか  (あっけらかんと面白い)

  買い物の後ろめたさの紙袋       (微妙な心理を突きました)

 

 

 最初、これらの選句を読んだ時にはかなり驚いたのでした。なぜか特に「王子」の句にはひっかかりがあったようで、別の時にいただいたお手紙の中にもこの句のことが書かれていたことがあります。しかしながらこの短いコメントがいっぱい書いてある感想文、他にも思い出す方がいるのでした。それは師である時実新子。筒井祥文さんの細やかさ、あたたかさは、そっくり新子先生と同じでした。その熱は、ひたすら川柳を愛する熱であったところも共通しており、このお二人は「川柳を書く人間はみんな可愛い」くらいの気持ちだったに違いありません。そうでなければ、どうして私のようなどうしようもなくつきあいの悪い、愛想のないものに、こんなに親切にしてくれるでしょうか。

 

                                                

                                                 2019.3.7

 

 

 

 

 

  

  こぼれたい水のあたりに口を置く  徳永政二

 

 本日で平成三十一年の二月が終了。やれるだけのことはやっている、と思う。そして無駄なこと、というのは案外、ないものなのかな、と感じる。空虚ながらくたを積み重ねているだけのような毎日ではあるけれど、そのがらくたの一部が全く予想していなかった場面で役に立つこともあるし。

 「こぼれたい水」ってなんでしょう。その水を飲む行為は恋愛のような、利害の一致のような、社会の中で生きることそのもののような。その水は口の中に入らずに、私の顔をまたこぼれ落ちるだけである可能性もあるにせよ。

 

                                                      2019.2.28

 

 

 

 

 

 

  死者は生者を妬むふるふる星祭り  時実新子

 

 死んでしまった人たちと話をすることはできないから、最後の時の感想をきくことはできない。死に顔を見ることができた場合でも個人差がかなりあって、とても辛そうな表情のままの人もいれば穏やかな表情に変化している人、生前とあまり差がないように見える人、いろいろ。

 この句は書き手が「死者の妬み」を感じ取れるからこそ書けるのであって、生き残っている自分と死者は同列なのだろう。

 時々、亡くなった人たちのことをふとした瞬間に思い出す。どんどん距離はひらいていくようでもあり、何年か経てば亡くなった人たちの年齢を追い越してしまうかもしれない。

 実際に亡くなっていなくとも、もう二度と会うことはないと確信を持っているかつての友人や知人なども私にとっては死者同然で、どんどん彼等の年齢を追い越し、思い出には霧がかかり、やがて忘れてしまうだろう。

 妬まれるべきはむしろ死者なのではないか、と考えてしまうお年頃の自分はまだ「お若い」のかもしれない。

 

                                                     2019.2.27

 

 

 

 

 

  一枝の梅をたよりに帰路につく

  水仙が咲いた何とかなるだろう         竹井紫乙

 

 花粉症でも花は好きである。特に梅、水仙の香りは嬉しいもの。

 

 お花のお稽古は夕方から夜にかけてだった。ばらばらにした花材を持ち帰り、また家で活けなおす。電車の中で潰されないように注意して、電車の次はバスに乗り、バス停から暗い田圃の横を花材を抱えて歩いていた。梅一枝と、私しかいない暗闇で、梅の香りだけが確かなもので、目の前のことしか考えることが出来なかった。庭に水仙が咲けばなんだかほっとして、近くに寄るとこれ以上は望めないのではないか、と思うくらい高貴な香りがそこにあって、ただその香りのことだけをおもって犬と眠っていた。

 

 

                                                       2019.2.24

 

 

 

 

  コインチョコぶんぶん回す十三(じゅうそう)で

  チョコレートまみれになって忘れます

  大体のことは終わってチョコレート        竹井紫乙

 

 子供の頃、チョコレートが大好物だった。ベビーチョコ、アポロチョコ、クランキーチョコ、チョコレートポッキー、フィンガーチョコレート、森永ハイクラウン、などなどを日々嗜む。肥満児ではなかったけれど、よく歯医者さんのお世話にはなっていた。

 なぜ太らなかったかといえば、お菓子でお腹がいっぱいで他のものを食べることができず、寝る前に小腹が減って何かを食べれば具合が悪くなってふらふらになるような幼児だったからで、不健康だったのかもしれない。

 

 コインチョコは阪急電鉄十三駅の売店で販売されていて(今もあるのかどうかは不明)乗り換えなどで十三駅のホームを歩く機会があれば、必ず買ってもらっていた。

 

 神戸の学校に通い出すと、モロゾフ、ゴンチャロフのチョコレートや、高架下やその他のお店には各国の輸入チョコレートが揃っていて、ぱくぱく食べていたら、さすがに思春期で太ってしまった。風船のように膨らんで、数年後には空気が抜けるように元に戻ったのだけれど、この頃からチョコレートとは距離を置くようになった。

 

 バレンタインデーというのは不思議な一日で、特別素敵な思い出はないし、かといってつまらない日でもない。とにかく、美味しいチョコレートを食べてよい日なのだ。私が。みんなで。或いは二人で。

 

                                                       2019.2.13

 

 

 

 

 

 

  風いれるわたしむかしの箱だもの  岡本聡

 

 久方ぶりに八幡市の松花堂庭園へでかける。ここには美術館もあって、敷地はかなり広い。一体何年ぶりに訪れたのかも思い出せないけれど、記憶とはいい加減なものらしく、周りの景色、建物の構造、庭の様子、どれもこれもはっきり覚えていなかったことだけがわかる。駅からの距離感まで異なっていた。

 時々、こういう記憶の曖昧さに困惑してしまう。では自分は何を明確に記憶していると言えるのだろうか。

 結局、感情の記憶くらいしか確かなものはないようだ。次は食べ物の匂いや味などもリアルな気はする。怪我をした時の痛みなどはあっさり忘れてしまえるし、忘れてかまわないことはどんどん自然消滅するらしい。

 自分が自分であることに嫌気がさしてしまうことも度々あるから、記憶力はこのくらいでちょうどいいのかもしれない。

 

                                                       2019.2.10

 

 

 

 

 

  蝶が来るこの消しゴムを動かしに  倉本朝世

 

 ばたばた慌ただしく、風邪をひいてふらふら。これが私の今年の始まりなのかと思うとなんて風情がないのだろうかと呆れる。

風邪は万病のもとというけれど、本当に毎度、一瞬「死にそう」になる。実際、私より若いひとが風邪をこじらせて肺炎で緊急入院したらすぐに亡くなってしまった。そのひとは離婚したばかりで、ちいさな子供が一人いて、二人の生活を始めたばかりだった。

風邪は馬鹿にできない。

 

 生活を変えたいなあと考えている。それは難しいことのようにも、簡単なことのようにも思える。

 

               

                                                     2019.1.31

 

 

 

 

 

 

  黒鍵のすきまに鳥がいた昨日  澤野優美子

 

 おかじょうき川柳社さんが毎年開催されている、「杉野十佐一賞」の今回準賞の一句。

 素敵・・・!掲載句を全部読んでみたけど、個人的にはこの句が一番良かった。ピアノと鳥の取り合わせも、付き過ぎとも思えず調和が感じられるし、”昨日”の余韻が明るい広がりで。いい意味での余白、余裕がある。

 

 全然余裕のない日常を送っている身にとって、眩しい一句。

 

                                                       2019.1.27

 

 

 

 

 

  平成七年一月十七日 裂ける  時実新子

 

 阪神淡路大震災から今日で24年が経過した。私は当時、24歳。あれからちょうど倍の年齢になった。

 私は中学と高校が神戸の学校だった。だから私にとっての神戸は、震災前の神戸である。

 

 高槻市内で暮らしていたので、我が家の被害は箪笥が動いていた、食器棚の食器がかなり割れた、大型の水槽の水が全部外に出ていた、外壁や内側に微妙な亀裂が確認できる、くらいなものだった。勿論、あそこまでの「揺れ」はこの24年間経験しておらず、去年の地震でさえも24年前のものとは比較にならない。

 友達や知人は神戸方面に居住していた人が多かったから、家が潰れてしまった、何時間も歪んだ家屋に閉じ込められた、ということが耳に入るのだけれど、不思議と直接関わりのある人達は命に別状はなく、それぞれの生活は予想外に変化したとはいえ、生きている。

 生活の変化。これは過酷なことで、震災以後の出来事の方が、ずっとずっとつらい、という人は沢山いる。私と同年代の被災者である友人達は、あまり震災の話をしない。その後に起こった苦しいことも、一度口にするくらいで、いちいち何度も話さない。

だから私もわざわざ、あの頃の話をしようとは思わない。 

 

 数年前に神戸の同級生から電話があった時、(その人は神戸っ子で、よそで暮らしたことはないのだけれど)震災の後、ほとんどの同級生は東京方面へ引っ越してしまい、むこうで仕事を見つけたり、家庭を持ったりしていて神戸に戻って来ていない。という話をきいた。だから同窓会をやろうにも、少ない人数しか集められないとのこと。当然の話で、とにかく生活を立て直す必要があったのだから。

 

 みんな、散り散りの場所で今日のニュース映像を眺めていたのだろう。もう見たくないという人も、もう忘れたい人も。

 

 

                                                      2019.1.17

 

 

 

 

 

 

 

  そんな意味でポストは立っていない  岡本聡

 

 叔母から不可解な小包が届く。祖母の着物は現在、三軒の家に分散しているのだけれど、叔母が持っているうちの一枚が届けられた。「祖母の十三回忌の時にでも、色喪服として着なさい」などと書いた手紙が入っている。

 薄い紫色の小紋だから、黒の帯でも締めれば確かに使える。でも私には祖母が生前つくってくれた喪服があるし、十三回忌って今年だったっけ?先に包みを解いた母が電話で確かめると「ううん。まだ数年先。」という返事。断捨離をやっているらしい。

 本当に文字通りの有難迷惑。うちは倉庫じゃないよ・・・。もうすでに、祖母の着物も帯も、沢山ある。手入れや修繕は全部、私が過去に呉服屋さんで済ませた。正直、これ以上箪笥の中味を増やしたくない。

 叔母本人は定年退職してから、若い頃にやっていたお琴のお稽古を復活させたので、新しい着物が必要で、ちょこちょこつくっているのである。きっと、自分の箪笥が手狭になったに違いない。こっちも手狭なのは同じ。困る。

 他にも通販で買い過ぎた不思議な洋服などが「余っているから」と、送られてくる。新品だとはいえ、好みの問題がある。この小包問題は、止めなくてはいけないのだろうか。そのうち収束するのだろうか。

 

                                                       2019.1.16

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ハタチとは煙の出ない玉手箱  蟹口和枝

 

 成人式の日に外出すると、晴れ着姿の方々を目にするのが楽しみ。今日も色んな振袖姿を堪能した。流行なのか、土地柄なのかは知らないけれど、びっくりするような姿の若者はとても少なく、古典柄の着物を沢山目にした。色目は様々。近所では、家の前で家族と写真を撮っている振袖姿の女性に遭遇したりして、ゆるゆるハッピーな空気が流れていた本日。

 掲句、うまいなあとしみじみ。玉手箱ねー。本当にその通り。でもこの感慨は、実際の二十歳にはないもの。人間は生きている間に何個の玉手箱を手にするのだろうか。

 

                                                      2019.1.14

 

 

 

 

 

  妖精の役になりきる死体役 いなだ豆乃助

 

 近所の商店街から帰る道。いつもとは違う道を通ってみようと思い、まだ昼過ぎで明るいし、道に迷っても構わないと歩き出す。

いつもと違う景色。あの建物、意外と近くにあるな、とかこの道の方が近道かな、とか色々考えながら歩いていると、行き止まり。

 こういうこともあるなと気を取り直し、また戻る。別の道を行けどもまた行き止まり。よくあることよねーと前向きな気持ちで歩くけれど、どんどん疲れてきた。足が痛い。

 しんどいなあ、いつもの道にすればよかったと後悔しているといきなり地下道が出てきた。いきなりだったので、こけた。こけて、地下道の階段に落ちる。靴が脱げ、手提げバッグが飛び、リュックが外れる。近くにいた人たちに助けてもらいながら、何とか靴をはきなおし、地上に上がり、「早く家に帰りたい・・・。」とうなだれる。

 そして、手荷物を持っていないことに気付き、慌てて地下へ降りるとなかなか見つからず、どんどん下へ降りて行く。何故か和室の部屋がいくつもあって、人がひっそり、何人か、いる。かなり気味悪い。ので、困る。財布もスマホも鍵も荷物の中だから、どうにか探さねばならず、焦る。

 というのが目覚ましを止めて二度寝した今朝の夢。早く起きろってことね、きっと。

 

                                                       2019.1.14

 

 

 

 

 

  糸で身をささえる糸に身をまかす  大川博幸

 

 ちょっと調子に乗って暴飲暴食を連日。きっちり胃の具合が悪くなり、肌が荒れ、反省して今日はあまり食べずに無理もせず。

幼少期は食が細かったけれど、10代から30代まではとても沢山食べることができた。まるでブラックホールのようにどんどん消化してゆく胃。運動不足だったのか、ちっとも背は伸びなかったけれど。

 

 食べる量や食事を摂るタイミングは個人差がある。私は会社勤めをしていなければ、一日二食でいい。休日に外出しない場合、ほぼ二食+少量のおやつ。世の中には一日一食の人もいるようで、どんな食事の摂り方でも体に合っていれば問題ないらしい。

 

 たまたま私は自分のペースで体内リズムを保てる環境にはいないけれど、完全にフリーになった時、どれだけの食料と睡眠時間が必要なのかは興味がある。

 

                                                      2019.1.13

 

 

 

 

  ピーマンのなかで夢見ていたんだね  中嶋ひろむ

 

 母の自転車には前カゴと後ろカゴが付いている。自転車を大切に扱うひとなので、カバーはしっかりかけてある。サドルから後ろは傷みやすいから、と言って二重にカバーしてある。

 出掛ける際に玄関を出てふと右手の自転車に目をやれば、後ろカゴに巨大な黒猫がすっぽりおさまっていた。目が合う。

何だ、うまい具合に後ろカゴに陽だまりが出来ているのだなあと気付く。「そんなとこで寝てたん。」と話しかけながら近づくと、こちらが恥ずかしくなる程の慌てようで、「寝てていいねんで。」と言ったものの猫に通じるわけもなく、大きくジャンプしてお向かいの家のガレージへ逃げて行ってしまう。

 

 羨ましい。私も陽だまりを見つけては潜り込むことにしよう。

 

                                                      2019.1.12

 

 

 

 

 

 

 

 

  はじまりは冬がいいんだ野生の目  樹萄らき

 

 花粉症。症状の緩和の為、ここ数年は年始めに鼻のレーザー治療を受けている。予約がなかなか取れず、やっと受診。

先生は年々腕を上げていて、今年は焼き焼きの作業もスムーズで、出血も少ない。麻酔が切れた後の痛みは毎度のこととして。

 老人になれば全身が鈍感になるから、花粉症もましになるらしい。という噂は本当なのだろうか。まだ「老人です。」とは名乗れないけれど、心はすでにかなり鈍感になったなと思う。体はどうだろうか。多分、あらゆる異変に対して敏感だ。神経質ではなくなったけれど。

 

 近所の木々には花の蕾が膨らんできつつある。むずむずの季節が近づいている。

 

                                                      2019.1.11

 

 

 

 

 

  謎は謎として焼きそばができた  峯 裕見子

 

 直属の上司のそのまた上司のうちのお一人が、お菓子の入った小袋を皆に配ってくれた。仕事上関わりの少ない方だから、

珍しいこともあるものだと思う。しかも袋には「おめでとう」と印刷されたシールが貼ってあり、中味は駄菓子の詰め合わせ。

昔、地蔵盆で子供に配られたお菓子セットみたいな。

 何があったのだろうか・・?お正月のお菓子があり余ったにしては、駄菓子だし。新年の挨拶にしては、こんなことされるの初めてだし。謎だわーと思いながら家に持ち帰る。

 

 お久しぶりなお菓子の数々。私が幼少期に食べていたお菓子は大体がロングセラー商品となっている。中でも、ベビースターラーメンは親が「食べちゃ駄目」と叱るので、意地になって食べていたから懐かしくて早速いただく。すると、驚いた。ちっとも美味しくなかったから。味覚が変わったということか?とにかく、おやつとしてはつらい。

 

 他のお菓子にも、同様の感想を抱いて何だか残念な気分。味覚の変化はただの変化ではなく、受容できる味の広がりだと考えていたのはどうやら違うらしい。ただ変わった、ということ。

 

                                                      2019.1.10

 

 

 

 

 

 

  赤い糸切れて星まで会いにゆく  池上とき子

 

 お正月に叔父の家を訪ねると、生後8か月の猫が居間にいた。捨て猫を保護して、貰い手を探しているうちに8か月経ってしまったとのこと。その家にはすでに4匹の猫がいるから、これ以上飼い猫を増やす気がなかったので、他の猫と隔離するために1階の居間で育てたらしいのだけれど、(他の猫は2階や、姪の部屋にいる)一匹だけで甘やかして育ててしまったから、我儘な性格になってしまったとのこと。結局、貰い手が見つからないのでその家の猫になってしまうのだろう。確かにかなりの暴れん坊で、気ままな猫だった。母は小さな動物と遊ぶのが久々で嬉しかったらしく、一瞬「家に連れて帰ろうか」と思ったらしい。私も猫と遊ぶのは久しぶりで楽しかった。でも。

 

 「あなたが犬を抱いて来て、‘‘これからこの犬を飼うことにします‘‘って発表する夢を見たよ。」と、会社の同僚が言う。一体どんな犬を抱いていたのか問うと、「シュナウザーだった。」とのこと。シュナウザーは仔犬でも、おじいさんみたいだと思う。今後、犬を飼う予定はないのだけれど。

 

 私は、亡くなった犬に会いたい。

 

                                                      2019.1.10

 

 

 

 

 

  暦減るウサギのなまえ忘れつつ  川合大祐

 

 年が明けて8日目。昨日は七草粥を食し、気分はもう「お正月が終わった」感じ。昨年末から忙しくなり、あまりお正月らしく過ごせず、一度でいいから寝正月というのをやってみたいと願う。老人になったら毎日、好きなだけ寝ているのかもしれないけれど。

私は基本的にぐうたらものだから、何でも適当でいいと思う。大概の事が面倒臭い。学校の勉強もいい加減で、卒業したらたちまち覚えたことを忘れた。物事を、思いっきり忘れることが出来る。だから心の病にならないのだろう。なのに。

 

 うっかり、今年は試験というものをいくつか受けることになってしまった。上手くいくかどうかはわからないし、失敗しても大丈夫なのだけれど、試験勉強はやっておかなければ不安だ。で、年末から久しぶりに試験勉強をしている。何もかも忘却しているから、思い出すのに時間がかかる。「ああ、これ、昔やった覚えがある・・・。」といちいち驚愕しつつ、テキストを進める。

 

 今日の昼休みの社員食堂では、Queenのライブ音源ががんがんにかかっており、観客の歓声が大きくて最初、野球中継かと思う。しかも同僚との話題が何故かマイケル・ジャクソンで、まるで高校生に戻ってしまったかのような。そして化粧室で歯磨きをしていると、以前、一緒に仕事をしていた人から「おめでとう!」と声を掛けられた。一体、私に何のめでたいことがある?そしてどうして人は、歯磨き中の人間に話しかける?(よく、歯磨き中に話しかけられる)  なんのことはない。新年の挨拶をして下さっただけだった。関西は15日までが松の内。注連縄もまだ外さない。

 

 一体、自分はいつからこんなにせわしない人間になり下がってしまったのだろうか。せわしない。

 

                                                     2019.1.8